並木克敏(天地一道)

「バーチャル気功空間 気の世界」

2001.05.05 創刊




第五章 気との遭遇
   
(05-10) 人間の究極の願望

三つの願望 西洋・東洋・日本(No.62)

   

2004.09.30
   


 【 理性と欲望 】
   

   「理性」と「欲望」というとき, 人間は固定的に創られた存在ではないので,

   どちらに重心を置くかは, その時代や周囲の環境によつて大きく左右される。

   私たちが通過してきた, 近代の「市民社会」と, 現代の「大衆消費社会」とで

   はこんなにも時代が近いのに, 重心の置き方がまるで違うのである。ディドロ

   ダランベール,ボルテール,ルソーなど, 百科全書派と呼ばれた近代啓蒙思想

   家が準備し, フランス革命によって誕生した西洋近代の「市民社会」は, 本来

   人間は欲望のなすがままに生きる「獣」のような存在ではなく, 理性優位の高

   邁な「人間観」によって, さまざまな欲望を封じ込めてきた。近代市民社会で

   は, 人間の理性が, 暴走しがちな感情や欲望を押さえ込むことこそが, 「人の

   道」と考えたのである。人間の理性の優位性こそ, 欲望で生きる野獣との決定

   的な違いであった。人間は, 獣ではなかったのである。しかしながら, 現代の

   「大衆消費社会」は, 「人の道」から物欲, 金銭欲, 性欲などの欲望を, 限り

   なく解き放つことによって成立した。人間がみんな「清貧」の持ち主だったら

   「大衆消費社会」は成立しないからである。肥大化した現代人の欲望は, 倫理

   的に, 道徳的にどうこう云うよりも, 「大衆消費社会」に内在する構造的なも

   のなのである。

   人は小金を貯めるほどにサイフの紐が堅くなり, 欲望の方は逆にどんどん膨ら

   んでいくものなのである。野獣は, お腹が一杯になれば, 欲するものに興味を

   失うけれど, 人の欲望には限りがない。凡人は, そのことを自覚して生きるし

   かない。欲望が全開し, 理性が極端に後方に退いてくると, 奈落の底への道が

   待っているからである。後先のことが全然見えなくなってくると, 隣近所で引

   ったくりをやったり, 通り魔をやったり, 挙句の果てに放火をやったりもする。

   面が割れるのは明らかではないか。引ったくりをやるのなら, どうして隣町に

   行くぐらいの努力をしないのだろうか。感情が暴発して切れたのならともかく

   も, 捕まえてくれと言わんばかりである。貧弱な「理性」や「想像力」と, ち

   っぽけな「欲望」なのである。



【 すべての「欲望」が満たされた人 皇帝 】
 

   「大衆消費社会」の中にあって, こんな問いを発することは無駄なことであろ

   うか。人間は, すべての「欲望」が満たされたとき, そしてすべての制約が外

   されたとき, 最後に何を求めるのだろうか。貧弱な「理性」や「想像力」と,

   ちっぽけな「欲望」の話ではない。50インチの薄型テレビが欲しい, ベンツが

   欲しい, 田園調布に豪邸を建てたい, 一流企業の社長になりたい, 藤原紀香を

   嫁にしたい・・・などの話でもない。このようなものは, とっくの昔に手に入

   れてしまった後に, 発せられる問いなのである。すべての「欲望」が満たされ

   たとき, 最後に求める人間の究極の, そして誰もが共有できうる普遍的な「願

   望」とは一体何んなのかということである。人の欲望には, 食欲や睡眠欲など

   のように生命維持のための根源的なものから, 物欲や金銭欲, さらには御老人

   になると欲しがる名誉欲まで, 数多くの「欲望」が存在する。けれども, すべ

   ての「欲望」を満足させた後に夢想しえる, 人間の究極の「願望」は, そんな

   に沢山あるわけではない。読者の方々も, 人間の究極の「願望」について想像

   して欲しいが, スーパーマンになること以外には, そう簡単には頭の中に浮か

   び上がってくるとは思えない。現代の社会にあっては, 田園調布に豪邸を建て

   こと自体が, 私たちにとって夢のまた夢であるし, すべての「欲望」が満たさ

   れた希有な人物は, 近代以降, 自由主義世界では一人も現れてこなかったから

   である。

   すべての「欲望」が満たされた人とは, すべての「権力」を手中に収めた人で

   あり, それは絶対権力をもつ「皇帝」に他ならない。しかしながら, 絶対的な

   権力を持ったからといって, あるいは, すべての「欲望」が満たされたからと

   いって, 必ずしも皇帝自身が, 人間の究極の「願望」を求めるとは限らない。

   それらの様相を, ヨーロッパの古代から中世にかけて成立した, ローマ帝国,

   中世カトリック世界, ビザンチィン帝国の皇帝を通して見ていきたいと思う。

   「事実は小説より奇なり」と云うように, 歴史的現実は凡人の想像をはるかに

   超えることがある。



【 ローマの皇帝 現世的ご利益 】
   

   古代ギリシャが, オリンポスの神々を戴く民主制の世界だったのに対して, 古

   代ローマの世界は, 帝政が確立してから, 皇帝を中心とした現世的で, 世俗的

   な文化の色彩を強めていった。一例を挙げるなら, 古代ローマ芸術の最高傑作

   である「パンテオン」神殿は, 高さと直径が共に43.5メートルを有する巨

   大なプラトン的空間を創造したが, 「パンテオン」とは「八百万(やおよろず)

   の神々の集う神殿」という意味である。ローマ帝国は, ヨーロッパ, 北アフリ

   カ, 西アジアの, 地中海を囲む広大な領土を獲得していたので, 地方の神には

   寛大であった。ということは, 逆に皇帝が絶対であって, 神への信仰が希薄だ

   ったということを意味している。

   「すべての道はローマに通ず」と云われるように, 敷石で舗装された軍事道路

   が, ローマの市内から植民地に向かって放射状に伸びでいる。その扇の要の位

   置に, 皇帝の広場である「フォルム・ロマヌム」がある。皇帝の軍隊が, この

   軍事道路から植民地に向けて進み, 植民地からはこの軍事道路を通って, 膨大

   な富がローマの市内に流れて込んでくる。皇帝は, 自分の権力を維持するため

   に, この膨大な富を利用した。皇帝は, 民会を構成する20万人ともいわれる市

   民たちに, バンと遊びをタダで与えることによって懐柔したのである。コロセ

   ウムやカラカラの浴場などの公共施設は, 権力維持のための道具であった。ま

   た, 生活関連施設に目を向けても, 古代キリシアのトイレがお丸だったのに対

   して, ローマでは自宅も公衆便所も水洗トイレであった。古代ローマの人々は

   みな現世の生活にこだわっていたのである。したがって, ローマの皇帝も究極

   の「願望」を求めるというよりも, 現世的なご利益にとどまっていたように思

える。
   


【 ビザンチィン美術 天国の創造 】
   

   全盛をきわめたローマ帝国も, やがて395年に東西のローマ帝国に分裂し, 爛

   熟した西ローマ帝国は, ゲルマン人の民族移動をきっかけにして, 476年にあ

   っけなく自壊した。ところが, コンスタンティノープルに遷都した東ローマ帝

   国は, 「ビザンチィン帝国」とも呼ばれ, オスマン・トルコによって滅ぼされ

   る1453年まで, 一千百年の長きにわたり盛衰を繰り返しながら, 中世の時代を

   通して, ヨーロッパに先行して独自の道を歩むことになる。また, 4世紀末に

   ローマ帝国で国教に公認されたキリスト教は, 「ビザンチィン帝国」では「東

   方正教会」として,のちのヨーロッパの「カトリック教会」とは異なる世界を

   築いていった。このようにして, 首都コンスタンティノープルは, 地理的に東

   洋に近いということもあり, ローマの伝統を受け継ぎながらも, 東洋の影響を

   受けて, 「ビザンチィン美術」という独自の文化を発展させた。

   この「ビザンチィン美術」こそが, 今回のテーマである人間の求めうる究極の

   「願望」のひとつを実現させたものなのである。それは何か。キリスト教徒に

   とって, 中世を通して最高の芸術作品である「キリスト教教会堂」に, ビザン

   チィン美術は,のちのヨーロッパ(カトリック)のロマネスクやゴジックとは異

   なる解釈を与えたのである。それはどういうことか。結論から云えば,神の聖

   霊が宿るキリスト教教会堂の内部空間を, 最後の審判によって幸運にも行くこ

   とになるかもしれない「天国」に創り変えてしまったのである。カトリック的

   解釈では, 天国へ行くか, 地獄へ堕ちるかは, 生前の「行い」によって決めら

   れるもので, 最終的な答えは, 最後の審判まで待たねばならない。教会での洗

   礼やミサ儀式への参加も, そして教会への寄付やボランティアも, 天国の道を

   目指す片道切符を, 運よければ手に入れるためでもあった。のちのカトリック

   のロマネスク教会堂の入口の上に設けられた「テンパヌム」には, 幸せな天国

   の世界と, 得体の知れない獣に食べられてしまう恐ろしい地獄の世界が, 浮き

   彫りで刻まれている。人々は, 教会に行くたびにこの光景を目にするのである。

   キリスト教では金儲けは悪しきこととされているので, そのために商人たちは,

   その罪滅ぼしに教会にせっせと寄付をするようになる。カトリック的解釈では,

   この世は仮の世界であり, ブルクハルトの言葉を借りれば「涙の谷間」なので

   ある。しかしながら「ビザンチィン美術」は, 仮の世界であるはずのこの地上

   に, 最後の審判によってしか約束されない「天国」を創造してしまったのであ

る。



【 ラベンナの教会堂 】
   

   同じキリスト教でありながら, 「ビザンチィン美術」が独自の道を歩むことに

   なった原因のひとつは, 皇帝観の違いにあったように思う。カトリックの世界

   観は, 人間を肉体と魂の二つに分け, 肉体は仮の世界であり, 魂は永遠の世界

   であるとした。そして中世のカトリックでは, このうち, 肉体=俗界(地上の

   世界)を支配するのは「皇帝」であり, 魂=聖界(天上の世界)を支配するのは

   「法王」という, 二つの権力が並存する二元的な世界を造り上げた。カトリッ

   ク世界の皇帝の権力は, 法王との力関係によって左右され, 最悪の場合には教

   会から破門され, 教会堂の玄関である「ナルテックス」しか入れないという事

   態も生じかねない。レ・ミゼラブルの「ジャン・バルジャン」のように, いっ

   たん教会の中に入っしまえば, 世俗の警察権力も及ばない治外法権を得ていた

のである。

   それに対して「ビザンチィン帝国」では, 皇帝は行政や軍事などの世俗的権力

   を握るだけでなく, 皇帝が自ら地上における神の代理人としたのである。これ

   を「皇帝教帝主義」と呼んでいる。カトリック世界では, 並存することになる

   皇帝と法王の二つの権力が, 「ビザンチィン帝国」では, 一つに集約されてし

   まった。全権力を一手に収めた皇帝が望んだものは, キリスト教の教会堂その

   ものを, 「天国」の世界に創り替えることであった。アドリア海に面するイタ

   リア北方の都市・ラベンナには, そうした教会堂がいくつか残されている。サ

   ン・アポーリナーレ・ヌーボー(547年), サン・アポリナーレ・イン・クラッ

   セ(549年), そしてサン・ヴィターレ(547年)である。これらの教会堂は, ユス

   ティニアヌス帝が, 地中海周辺地域を支配した「ビザンチィン帝国」の第一黄

金時代に建造されている。



【 天国の世界とは 】
   

   「天国の世界」をイメージするとき, 古今東西, 怖い「地獄の世界」のイメー

   ジと同様に, いくつかの共通する要素が垣間見られる。「天国」は, 誰もが望

   む幸せな世界なのであるから, まずは徹底的に美しくなければならない。この

   世のものとは思えない「唯美的世界」こそが, 天国の第一条件であり, 退屈な

   ものや醜いものはお呼びではない。次に, 「天国の世界」には, 浮かぶような,

   浮遊するような, 軽さの法則が支配しており, 地上へ引っ張るような重力は存

   在しない。この世で人間の動きを制約している, 万有引力の法則から解放され

   て, どこにでも動き回れる自由が欲しいのである。これにもう一つの要素を加

   えるとするならば, 人間に希望を与え, そして人間を包み込むような「光」と

   その輝きである。特に, 八角堂のサン・ヴィターレは, 天国の世界が最もよく

   表現されているように思う。人間にとっての究極の「願望」のひとつは, この

   世に「天国」を創造し, その中で至福の時を過ごすことであったのだ。美しい

   こと, 浮遊すること, そして「光」の三要素が, 古今東西, 天国のイメージの

   中に存在している。この天国のイメージは, 日本では平安時代の末に, 浄土信

   仰を背景とした阿弥陀堂に見られる。阿弥陀堂のなかでも抜群の傑作は, 宇治

   平等院の鳳凰堂である。ここには, 平安時代の人々が夢見た「極楽浄土の世界」

   が, 実に見事に表現されている。

   人間の究極の「願望」のひとつが, 中世のビザンチィン帝国のキリスト教教会

   堂と日本の平安時代末の阿弥陀堂で実現されたように, この世に美しい「天国」

   を創造することであった。それに対して, 人間にとってのもうひとつの究極の

   「願望」は, この世に生を受けた者が皆そうであるように「不老長寿」への願

   いである。特に, すべての「欲望」が満たされ, 権勢を欲しいままにしてきた

   中国の歴代の皇帝は. 長生きのための「不老長寿」ではなしに, ほとんど不可

   能とも思われる「不老不死」の方法を執拗に追い求めた。中国の皇帝の「不老

   不死」への願いには, 世界史的に見ても, 異常なほどの執念が込められている。

   そうして発見された方法のひとつが, 皇帝が望む「不老不死」ではなかったけ

   れど, 「不老長寿」を実践する「気功」だったのである。このように「気功」

   は, すべての「欲望」が満たされた人が, 最後に求める人間の究極の「願望」

   から生まれたのである。『50インチの薄型テレビが欲しい, ベンツが欲しい,

   田園調布に豪邸を建てたい, 一流企業の社長になりたい, 藤原紀香を嫁にした

   い・・・』などの次元(デメンション)ではないのであてる。



** 会員からのメッセージ ***********************


  
 『腰痛に効果あり』(東京 もぐら♂)
   
   『ただ今, 外気功の中級をやっています。初級の後半にいくつかの外気治療
   法を指導いただき, 本当かしらと思いながらも, 親類や友人に試してみまし
   た。教科書の中にも書いてありましたが, 腰痛は効果が高いですね。腰に気
   を送るとと, 腰から背中にかけてぽかぽかと暖かくなるそうです。お風呂に
   入っているみたいと言います。自分の少ない経験ですが, 反応がある人は痛
   みが消えるか, 痛みが弱くなるようです。反応がまったくない人は, 効果が
   ないようです。どうしてこんな差がでるのか不思議です。ところでお願いが
   あります。私の五歳の息子が小児喘息に罹り苦しんでいます。自分の気を使
   って, 小児喘息を改善する方法はないものでしょういか。どうぞ教えてくだ
   さい。』


   ※倶楽部より一言
   
   『気功の治療法では, 大人と幼児とでは気の送り方が違います。大人のやり
   方のままで, 幼児に気を送ると, 重大な事故を起こしかねません。幼児には
   絶対にやらないでください。大人での方法を十分にマスターしてからにして
   下さい。』

 


** 購読者コーナ *************************


   
□ 意見 「一指禅功外気功の教室は少ない」□   
   
   『私はこないだまで, 東京にある日本気功協会で, 中国人の先生に一指禅功を
   習っていました。先生は, 二十数年近く一指禅功の外気功も教えていたそうで
   すが, 今年になって中国に帰られてしまいました。先生の代わりに, 日本人の
   お弟子さんが一指禅功を教えているようですが, 内気功だけで, 外気功がなく
   なってしまいました。外気功をやっているところを探してみましたが, 東京と
   いえども, ほとんど見つかりませんでした。本当に一指禅功外気功の教室は少
   ないですね。』(東京 主婦♀)


 
   
  

   ※気功やこのメルマガの内容に関して, ご意見やご質問がありましたら, 是非
   
お寄せ下さい。お待ちしています。
   
    Email aam13920@nyc.odn.ne.jp 編集 正田 竜二
  



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【バーチャル気功空間 気の世界】月刊
                                   
    発行元: 日本気功倶楽部
   監 修: 天地 一道
   編 集: 正田 竜二


※「バーチャル気功空間 気の世界」に掲載された内容を無断で複写、転載、転送および引用することを禁止いたします。なお、お友達の方へ紹介の為の転送は大歓迎です。           

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