並木克敏(天地一道)

「バーチャル気功空間 気の世界」

2001.05.05 創刊




第四章 気と社会
   
(04-04) 人間能力の退化

蛍光灯と目の「感度」の退化(No.44)

   

2003.04.05
   


   【文明の進歩と退化】
   
   
   
人間能力の退化といえば, 子供たちの「学力低下」とか「体力低下」を, 読者

   諸氏は想像されることであろうが, ここで私が話題にしたいのはそうではない。

   文明が進歩すると, 世界の誰もが経験することになる, 普遍的な人間の「性能」

   の退化現象についてである。「文明」とは, 現代文明とか, 物質文明とかいわ

   れるように, 自然を改造するための「技術的な諸手段の総体」を意味している。

   その目的とするところは, より便利で快適で効率的な道具を, 人間に提供する

   ことにある。文明は技術に関するものであるから, 時代と共に進歩して止まな

   い。ラジオから白黒テレビ⇒カラーテレビ⇒薄型テレビ⇒立体テレビ等々へと

   進化している。これらの情報手段の進歩は, 聴くものから視るものへ, 録画か

   らライブへと視界を拡大させてくれた意義は大きい。けれども文明の進歩が,

   いつも人間にプラスに働くというわけでもない。便利で快適で効率的な道具は,

   かつて人間の身体でこなしていた事柄を, 人間に代わってやってくれる。人間

   の身体というのは, どの部分でも使わないと退化するように作られている。交

   通手段の発達で足腰が弱り, 柔らかい食物の氾濫で顎が小さくなり, 電卓の過

   度の使用で若ボケが増えるなど, 文明の進歩とは裏腹に人間の退化の現象は確

   実に進行しているのである。これらの事例は, 新聞やテレビで繰り返えし報道

   されているものなので, 誰もが承知していることだと思う。だが, 人知れず退

   化してしまった「器官」もある。


   
  
 【目の「感度」の退化】
  
   
   世間ではあまり知られていないし, 話題にもなったこともないが, 近代になっ

   てから退化してしまったものがある。それが目の「感度」である。現代人は,

   コンピューターのディスプレイを毎日見続けなければならないため, 肩凝りや

   腰痛と共に視力の低下が問題になっている。しかし日本人は, 視力が低下する

   以前に, すでに目の「感度」を退化させていたのではないか。目の「感度」と

は, 分かり易く言えばフィルムでいうところのASA100とか, ASA400とい

   うことである。ASA400のフィルムを使えば, 暗い場所でもくっきり写すこ

   とができる。この暗さに対する「感度」が, 江戸時代の人々と較べると, 現代

   人は著しく鈍くなってしまったようにみえる。

   どうして, 退化させることになってしまったのか。この目の「感度」を退化さ

   せた犯人こそが, 近代以降に登場した蛍光灯なのである。それまでの行灯やロ

   ウソクのようなゆらゆらした光に対して, 蛍光灯は, 闇を昼間のように圧倒的

   な明るさで照らし出す。常に昼間のような明るい場にいれば, 暗さへの「感度」

   は, 退化するのが自然である。人間の身体というのは, 必要を失った機能は,
  
   退化せざるをえない。といっても, 江戸時代の人の「感度」と, 現代人のそれ

   との違いを, 科学的に証明した論文を読んだわけではない。灯火具の歴史を調

   べたてみたが, 残念ながら, 目の「感度」についての記述はどこにも見つから

   なかった。しかし, 日本の文化史を丁寧に見ると, どうしても電灯以前の日本

   人は, 目の「感度」が, 私たち現代人よりはるかに高いと思わずをえない場面

   にしばしば出会うのである。


    
   
【行灯の光】
   
   
   神田明神下の銭形平次の話しではない。いくら銭型平次が目がよくても, 月夜

   の晩に, 黒づくめの盗人に向けて銭を投げても, 当たるとは思えない。また,

   当時の江戸の町は, 大通りの角々には大門があり, 夜の十時になると閉じられ

   てしまうので, 盗人といえども町中を自由に歩き回われるわけではない。銭形

   平次は, どこから見ても歴史を無視したフィクションである。   

   近代以前の照明器具(灯火具)には, どのようなものがあり, 人々の暮らしと

   どのような関わりを持っていたのであろうか。江戸時代の照明器具の最もポュ

   ラーなものは, 時代劇でもお馴染みの「行灯」である。和紙で囲われた火袋の

   中には, 小さな灯明皿が置かれ, 菜種油が注がれている。菜種油の中に, ロウ

   ソクの芯にあたる「灯芯」が入る。体験第一主義をモットーとしている私とし

   ては, 行灯の光がどのようなものなのか知りたかったので, 実際に行灯を原寸

   大で作ってしまった。困ったことに, 灯芯は灯芯草の芯を乾燥させて作るのだ

   が, 東京では手に入らない。そこで当時, 灯火具研究の第一人者だった某先生

   をずうずうしくも尋ね, 灯芯を分けていただいた。これで, 完全に江戸時代の

   光を復元することができると喜んだ。灯芯に火をつけてみると, 唖然とした。

   行灯の光とは, こんなにも暗かったのかと。行灯の火袋から1メートル離れる

   と, 男か女か正確に判別できない。シルエットでかろうじて分かる程度であ

   る。また, 行灯の和紙を通して新聞などの活字は全く読めない。和綴じの本

   の活字がみな大きいのは, この行灯の光と関係していたのである。それも,

   火袋を上にずらして直接, 灯芯の光にかざさないと読めない。某先生が「君,

   時代劇は, 夜の明かりについてはすべて嘘なんだよ」と言っていたのを実感

   できた。



   
【蛍光灯と闇の消失】   

   
   こんな暗い空間の中で, 江戸時代以前の人々は夜を暮らしていたのである。行

   灯を点けたとき, そこに現われる空間は, 独特のものである。蛍光灯の豆電球

   のように, ぼんやりと室内全体を照らすような明かりではない。闇が主役で,

   明かりが脇役というものである。私の目の感度からすれば, 行灯の明かりの恩

   恵を受ける場は, 半径1メートル以内で, その先は闇の漂う真っ暗な世界であ

   る。ただ, 江戸時代の人々は, どの辺まで見えていたのか, もはや知るすべも

   ないけれど, 私の目の「感度」では生活が成り立たないことも事実である。浮

   世絵に描かれている夜の生活風景を見ると, 目の感度の違いを感じざるをえな

   い。彼女たちは, 闇の中が猫の目のように見えているのだと。

   日本は戦後, 明るいうえに電力消費量が少なく経済的だという理由で, 蛍光灯

   が電灯を駆逐して, 一気に全国津々浦々に及した。それも, 一室一灯で中央か

   ら吊り下げるという画一的な照明の仕方であった。蛍光灯は光源が長いために,

   手暗がりができない反面, 室内からは闇が消えてしまった。室内は, どこまで

   も徹底的に明るくなった。これについて日本人は怪しまないが, 世界的には珍

   しい照明文化なのである。欧米では, 蛍光灯は台所やガレージなど作業空間に

   のみに採用される照明器具で, リビングルームなどに顔を出すことはない。照

   明デザインの極意は, どこに明かりを作るかではなくて, どこに闇を作るかに

   あるからだ。闇は, 気配を働かせ, 気配りを育む。視覚には, 二種類あり「明

   暗を感じる感覚を光覚,色を感じる感覚を色覚」というそうである。人は老化

   すると光覚が衰えてくるというが, 日本人は戦後, 蛍光灯によって目の感度を

   退化(老化)させると同時に, 気配(けはい)や気配(きくば)りの感受性を

   も退化させてしまったのであろうか。欧米の明かりの文化が, 今も闇を大切に

   しているのとは, 対照的である。かつて, 谷口潤一郎が「陰翳礼賛」を著わし,

   闇の美学を称えたはずなのだが。世間ではあまり知られていないし, 話題にも

なったこともないが, 「気」も人知れず劣化しているのである。
   
   
  
** 会員からのメッセージ ********************


      『中庸が大切』(フェアリー)
   
  『目に見えないエネルギーと云えば、電気もそうですよね。誰か、電気エネル
   ギーを見た事のある人はいますか?電気はプラスとマイナスがあって、家庭に供
   給される電気も、プラスとマイナスの配線になっていますよね。それが一つの
   電気器具に通されるとエネルギーが生じますよね。気もまた、陰と陽の気があ
   って、それが人間という媒体を通してエネルギー化されるようです。このメカ
   ニズムでもって天の気は陽、地の気は陰というように表現するとすれば、たん
   とう功はまさに、充電スタイルではないかと感じています。病気というのは、
   気を病むと書きますよね。「病む」は「止む」と語源を一にします。もしも、
   気が陰と陽のどちらかに偏ったとしたら、気のエネルギーはうまく流れず、気
   の止んだ処に病が生じます。だから、どちらにも偏らずに流すことが気功に於
   いても大切なことなのです。お釈迦様は中道を説かれました。中庸という教え
   もそうですが。この世は全て陰と陽の二元的な側面を持ちます。どちらも必要
   ですが、どちらにも偏ってはならないということなのです。』
          

** 購読者コーナー **********************



   
□ 質問 □
   
   『私は一年ほど前から気功の入門書を参考にして練習してきました。最初のう
   ちはなんにも感じなかったのですが, 三ヶ月過ぎたころから少しずつ気の反応
   が出始めました。意念を使って体内に気をめぐらしていると, 気が流れている
   のも分かるようになってきました。最近になって反応はますます強くなつたの
   ですが, 練習中に頭痛やめまいがたびたび起きるようになました。これはよく
   いう気功の偏差なのでしょうか。偏差だとしたら, どう対処すればいいのでし
   ょうか。』(東京 THさん♂)

   
■ 答え ■
   
   最近, 偏差についての相談が多くなっています。相談を受けた事例では, 偏差
   を起こすタイプには二つあります。一つは, 未熟な中国人の気功師?から指導
   を受けた場合です。中国人だからといって, すべてが優れた指導者というわけ
   ではありません。トレーニングの最後に, 絶対やらなければならない「収功」
   を, 知らない中国人の指導者が実際にいるのです。指導者をしっかりと選びま
   しょう。日本人から指導を受けて偏差が出たという事例は, まだ倶楽部にはき
   ていません。
   もう一つは, 本を読んで勝手に解釈して練習した場合です。特に, THさんの
   ように意念を使うと, どうしても初心者は意念が強過ぎる傾向があるので, 偏
   差が出やすくなります。相談を受けてつくづく感じることは, 偏差がでると本
   人は相当に辛いおもいをしなければなりません。気功というのは, 気血を正し
   く流せば, 健康の維持と病気の回復に効果があるのですが, 気血を間違った方
   向に流せば, 病気にもなってしまうということです。この自明の事実を肝に銘
   じて, 気功の練習を市販の「本」を参考にしてやるべきではないと思います。
   気功の入門書は, その著者自身がこの本で練習ができるとは考えてはいないの
   ですから。ゴルフやテニスなどのスポーツのレッスンとは, まったく違う世界
   なのです。
   



  ※気功やこのメルマガの内容に関して, ご意見やご質問がありましたら, 是非
   
お寄せ下さい。お待ちしています。
   
    Email aam13920@nyc.odn.ne.jp 編集 森澤陽子(准指導員)
  



      
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        【バーチャル気功空間 気の世界】隔週  
                                   
    発行元: 日本気功倶楽部
   監 修: 天地 一道
   編 集: 森澤 陽子


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